
数年前、友人O氏から祖父作の桑彫抜(指物ではなく、くりぬいて作る技法)巻煙草入れを頂戴した。〜煙草はやはり文化だっ!と騒いで笑われている〜
南斎は仕事に大変厳しい、怖い人だと見聞きしているが、ほんとうは、技法や常識にとらわれない、おおらかな人だったのではないだろうか?
仕事が遅いのは家系かもしれない。いいものはそんなに早く作れないよね、、と祖父と話す時間は跡継ぎの特権といえるかもしれない。
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「続 冬青庵楽事」 冬青 小林 勇
竹の竹斎、桐の留斉、桑の南斎。この人たちの作品を持っていた。竹斎の花籠は失ったが、あとの二人のものは今も大切にしている。三人とも近世の名工として伝っているが、作品が少く、それぞれ家庭に入ってしまったので容易に見る機会がないようだ。
私はかねがね職人の話をきくのが好きで、二三の人がいろいろの分野の職人の話をききがきした本を読んだ。しかし何となく表面をなでただけ、その職人の個性が出ていない。どの人の言葉使いもいわゆる「職人言葉」になっているのが多く気に入らなかった。
私は三人の名工のうち会ったのは、桑の前田南斎だけであった。そのことを書こうと久しく思っていたが、むずかしくて手が出なかった。それでは今は書けるのかと自問して見ても自信はない。しかし私のこの連載も終りに近づいたので勇気をふるってとっかかろうと思うようになった。老来体力も衰え、行動も頭もにぶくなったので、てきぱきと物ごとが運ばない。老人らしく、病人らしくたいらの心持で過したいと考えるのに、そういかない。腹の立つことのみ多くて厄介である。夜一人で酒をのんでいると、だんだん頭が冴えて来たような気分になる。そうすると、この稿に書いてもよさそうな「材料」が次から次と浮んで来る。その時すぐに記録しておけばよいのだが億劫なのでそのままにしておくと、翌朝はきれいに忘れている。
夢幻の世界などというのは、こういう心持であろう。職人のことを考えていると、この頃の世相がむやみに忌々しい。
職人がよく変人だといわれる。変人などではないのだ。まっとうな人間なのだ。いくら注文があってもなかなか仕事をしない。金のあるうちは仕事をしないで酒ばかりのんでいるなどといわれる。しかし職人の身になったら酒でものまずにいられぬのであろう。 岸田劉生の愛用した印に隠世道宝というのがある。劉生は自分が職人だなどと思ったことはないだろうが、貧乏し、何事も意のようにならなかった時こういう心持が生じたであろう。
時に、「芸術家」が「俺は職人だ」などという人がある。一生懸命仕事に打込んでいるという意味かも知れないが、名も現れず、貧乏をし、優れた作品だけを遺した名工が古来どのくらいあっただろう。名のある芸術家より、無銘の名品を遺した職人の方が多いであろう。しかし今後はこういう名もない芸術家は多くは出ないと思う。作者の名がついていて下らぬものがどろどろ充満するのではあるまいか。
芸術家たちの世界もまた修羅の巷だ。金力と名誉を欲することは、政治家が金力と権力を握りたがることと大差あるまい。
「桑彫抜巻煙草入」
さて私の夢幻の境をさまよう想念は世相にまで及び、アフリカや印度などの民衆のひどい姿を写した写真などに飛ぶのだから始末が悪い。そうして夜が更けてしまうのだ。
今年七月三十日は露伴先生の三十三回忌だった。私は北軽井沢の山小屋で独り先生の思い出に耽った。「老始愛陶詩」という陸游の句を発見し、露伴先生のことを思うと、苦い日にあんなに人の考えられないほど先生に会い尊い時間を邪魔したのに、一体俺は何を学んだのだろうと思う。そしてこの頃、露伴全集をのぞいて見ると、始めてああそうかと思うことが多い。ここにも私の怠惰と甘ったれがあった。またしても日暮れて道遠しの感を抱かずにはいられない。
先生は職人が好きだった。さりげなく職人の話をしたが、深い愛情を湛えていたように思い出す。
竹斎のことも留斎のことも先生の口からきいたことはなかったようだが、今度も竹斎の花籠を思い出した時、ふと先生の最晩年の作品の一つ「幻談」は、釣竿のことであるのを思い出した。幻談はもとより小説であるが、先生はあれは釣りの先輩からきいた、死人が竿をしっかり持っていたという話から作ったといった。先生から釣りのことはずい分きいたし、利根川へ連れていって貰ったこともある。それで今度全集を出して「幻談」を改めて読んでみた。すでに何回も読んだこの作品に全く新鮮な感銘をうけたのに驚いた。「老いてはじめて愛す陶詩」と口はばったいことは云えぬが幾分は味わえるように思われる。

先生の釣道具は何回か見た。鯨のひげにつける鈴に金のと銀と二つあって私が先生のお供で利根へ行った時、舟縁へそれをつけた。魚がかかると鳴るのである。先生の金の鈴も私の方の銀の鈴も二日の間に一回も鳴らなかった。釣糸の段段細というのも先生は見せてくれた。
「幻談」で話されている大部分のことは、先生があれを書く前に折にふれてきいていたのだ。私が何故この稿を書く時に「幻談」を思い出したかというと、先生の持っていた釣竿のことを回想したからである。
「幻談」では、夕暮れの海で、死者の持っていた釣竿を手に入れることになっている。死者の持っていた竿をつかむと「竿は水の上に全身を凛とあらわして、恰も名刀の鞘を払ったように美しい姿を見せた。」
「幻談」では名刀の如き竿を海へ返してしまうのであるが、先生の持っていた名竿は作者がわかっており、これを作って貰った苦心談もきいた。先生はこの竿を愛していた。素人の私が見ても実に美しいと思った。
先生は晩年竿を使っての釣りをしなかった。「誰かわかる人にあげようかと思っているが」と云ったがとうとう誰にも与えず、昭和二十年五月二十五日、伝通院の蝸牛庵に於いて焼亡してしまった。「幻談」を書く時露伴先生の中には、この名竿があったにちがいない。竹は布袋竹で、それを選び育てる話などもきいた。作者は、「竿忠」といった。

竹と木と土で作ったものは美しい。もちろん他に金属や月、漆などあるが、職人とか名工の作ったものはこういう材料で作ったものが親しい。私はコンクリートで固めたもの、ビニールを使ったものなど好きになれない。同じ石類でも雲崗の石仏に素晴しいもののあるのは知っているし、日本でも野仏の中に素朴な美を見ることが出来る。しかしあれが若しセメントで出来ていたらどういうことになるだろうか。
近頃お寺などが鉄筋コンクリートで建てられるのを見ることがある。外観形式は似ているが、冷やかな感じである。
正倉院の中を見ることは戦前はやかましい身分の制限があったし、現在もほぼ同様である。しかし私は昭和二十六年にここへ約一週間つづけて入ることが出来た。岩波写真文庫のスタッフが御物撮影のために入ることを許されたのである。
正倉院にはやかましい規制がある。私はそれを詳しくは知らない。現在はどうなっているか知らないが、以前は秋、宮内省から役人がやって来て倉を開く儀式をやり、確か一カ月だけ、風入れをした。その期間だけ或る「資格」と「コネクション」のある人達が拝観を許されたようだ。正倉院の校倉は見るからに荘厳で美しい、これだけ美しい木造建築がのこっているのは、珍らしく、ありがたい気がする。明治以前には高さ、二米四十の床下に乞食が住んだりして焚火をしたこともあるという。その痕跡も見えるが、よく火事を起さずにすんだものと思う。
中へ入って私の一番最初に思ったことは、その中に入れられているものの保存のよいことであった。立沢なガラス張りの鍵のかかった戸棚におさめられているから手に取って見ることは出来ないが、少しも古びた感じがない。私のおどろいたのは、その檜づくりの戸棚は、伊藤博文の命によって、明治十年に作られたというが、昨日作られたといっても怪しまないほどの真新らしさを保っていたことだ。校倉造りの効果であろう。 倉の開けられるのは、湿度の少い日であって、晴れた日でも湿度計が上った日には開かれない。そのくらい厳重にしても当然であろう。 私は北倉、中倉、南倉の一、二階を丁寧に三四回ずつ見て廻った。私の余り興味をひくものは少かったが、ここに納っているものが全部七、八世紀のものであるということに感慨を待った。日本製のものは少く、そして九千点もあるという収蔵品のうち芸術的に感興をひくものの数は多くなかった。私の行った年は一般のそして特定の人も拝見を許されず、少数の研究者だけが許可された年であった。
私の目をひき興味を抱いたのは、矢張り木と竹製のものが多かった、中でも確か中倉にあったと思うが黒柿で作った単純な箱であった。長い方が一米にも足りず、深さは五十糎くらいか、蓋がついていた。何ということもない茶箱のようなものであったが、その素朴な美しさに打たれた。
私は、一緒に歩いていた所長に、もし一点を選ぶとしたら、頂戴したいのはこれだというと所長が時の総理大臣吉田茂がお前と同じことを云ったと笑った。

「桑材菊彫嵌硯箱」
私は最初、竹斎、南斎のことを話したいと考えたのだが、竹斎のことも南斎のことも調べることが出来なかった。しかも竹斎の作品はなくなってしまった。桐の留斎の作った文台があるので、それを写真にして、掲載するにとどめる。漆で書かれた文字は露伴先生の筆で裏側には「白香山詩説」 「露伴道人」と墨書されている。文台の美しさに露伴の漆書きが華を添えている、珍品と申すべきであろう。
桑の南斎に会ったのは、既に二十年近く前ではないかと思う。 銀行家の曾志崎誠二翁が南斎を知っていて、その作品を見に行こうと誘われた。安倍能成、小宮豊隆両先生も一緒だった。 南斎はすでに年とっていて、しかも病後であった。いろいろの作品が家の中に置いてあり、それらは希望者の注文で作ったものであるときいた。作品といっても家具が主のように見うけられた。いずれも桑の良い材料がつかわれていて美しかった。箪笥や鏡台用箪笥、その他手文庫など皆美しかった。
材料の桑は御蔵島に生えていたもので皆年代を経たものといった。御蔵島には昔からの大きな桑の木があったが、次第に少くなり、今はほとんど絶滅に近いと、南斎は淡々と話した。 ひと通り見終った時、南斎は私達を別の部屋に案内した。
その部屋の窓よりに一脚の机が置いてあった。それは一見して桑の製品であることがわかった。 私たちは皆息をのむような気持になって眺めた。南斎は黙って自分の作品を見て坐っていた。
しばらくして、誰からともなく賞賛の嘆声が発せられた。
南斎は、このような立派な桑樹は自分の生涯にもー度しか手に入れることは出来なかったと感慨をこめて話した。御蔵島にももうないだろう。自分が手に入れてからも三十年以上経ている。戦争で失っては困ると思って安全な所へ移しておいた。自分も年老いて来たから一生一代の思い出にこれを使って作品を遺して置こうと考えた。しかし何を作るかと散々考えたのち迷ったのち、机にしようと決心した。
机を作るのが板の大きさも木目もー番ふさわしいと考えたので一安心したが細い部分を決めるまでに随分手間取った。しかしいつまでも躊躇しているわけにゆかないので、祈るような心持で仕事にかかったと南斎は感慨深そうに話した。
南斎はこれが自分の最後の作品になる、材料もないし健康もたもたないと覚悟したので時間はいくらかかってもよい自分の意に叶ったものを作り上げようとしたという。私は、桑の木の特徴や苦心談をききたいと思ったが、その机の美しさにだけ打たれていて質問出来なかった。何百年か、御蔵島に生きていた桑の巨木は一枚の板になり、一つの机になった。その作者名人は精魂を込めて仕事に打込み、自分の生涯の最高最後の仕事を成し終えて今その前に坐しているのだ。 この美しさは実物を見なければわからぬと思う。一座の者は黙していた。
私は、自分でも思いがけなかったが突然これをゆずってくれと云ってしまった。人々はあっけに取られたようにしていた。南斎は私の顔をじっと見すえた。私も目を伏せず南斎の顔を見ていた。やがて南斎は、ふり切るような気配で「あなたにゆずりましょう」といった。そして大切にして下さいよといった。
間もなく私達は南斎の家を出て車に乗ったが、何となく気まずい空気があった。安倍先生が「僕もほしかったが、云い出し兼ねているうちに君にやられてしまった」といった。
南斎が机を渡してくれるまでに尚時間がかかった。私はその心持を察して一刻も早く渡してくれとはいわず、何回か南斎家を訪れた。そして桑の手文庫や松の香合を貰った。 机の板のまわりに打ってある装飾の釘の形は正倉院の御物の中のものから学んだと南斎はいった。

「桑材春日形文机銘部分」
南斎の桑の机や留斎の文台を見ていると、いったいこれらの作品はどのようにして作られたのだろうと思う。 二人とも名エと呼ぶことに誰も異存はあるまい。しかしその名工はどのようにして出来たか、今にしては誰も知ることは出来ない。その出生の所、年月日、歿年等は調べればすぐわかるだろう。しかし私はそれをしない。作品があるから他のことはいいと思うのだ。二人共家族があり、留斎の妻女は「ふみや」と露伴家で呼ばれ、晩年の露伴先生に仕えていた。如何にも職人の女房らしくはきはきてきぱきした女であった。
この人が露伴先生の最後の色紙を貰った人だ。かかれたのは「水無月や与助はゐぬかどぜう売り」という句であった。 南斎の子息はたしか父と同じ道を選んだときいたが、桑樹のみを扱う人ではないような記憶がある。
南斉の机を見ていると、この桑をどうして発見しただろうと思い、それを板にひく時どんな神経を使っただろうと思う。この美しい木目を生かすのにどんな修練を積んだのだろう。桑の性質をのみ込むのにどの位の年月がかかったのだろう。 鉋で、この美しい面をつくるまでに一体どの位の修業をしたのだろう。隅から隅まで作者の生涯の修業が生きているのだろうと思う。
私は修業というものがどんなものかを改めて考えずにはいられないのである。
「桑材文台」隅部分