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切り抜きから

2009.12.21

若者たち_信濃毎日新聞2009年12月掲載記事

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若者に自立していく姿をみせてもらえると、僕もこの仕事を続けてきてよかったと思います

昔から 「ものでもひとでもほんものは10年ひとふし」 お陰様でよい年末をいただきました


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「会ってみたいモノつくるひと」木工芸 前田大作さん(上)
信濃毎日新聞_2009年12月17日
聞き手・北沢房子


諏訪市の宮坂醸造アンテナショップ「セラ真澄」のディレクター宮坂公美さんが、江戸指物師の4代目、前田大作さん(33)を紹介してくれました。信州の木にこだわり、信州の美しさを表現しながら、新しい感覚を取り入れた作品を手掛けているそうです。美ヶ原高原に近い、松本市入山辺の前田さんの工房を訪ねました。

 「うちは、江戸指物という木工の伝統技法を受け継ぐ家でして」と、前田さんは折り目正しく丁寧な言葉遣いで話し始めた。

 江戸指物は、釘を使わず木の板を差し合わせて家具や調度品を組み立てる。すっきりとした仕上がりだが、ほぞと呼ばれる板の合わせ目の加工など、見えない所に手間ひまかけて轍密な細工を施しているのが特徴で、江戸っ子の気質と美意識が作り出したものという。
 そんな仕事をする工房が、美ヶ原高原に向かう山道の先、森の中の開拓地にある。
 「曾祖父は東京の京橋に工房を構えていましたが、都市化が進んで職人がものを作る環境ではなくなって、祖父と父の代に鎌倉に移り、さらに25年前に一家でここに引っ越してきました」。父・純一さん(61)が原野を切り開いて工房を造るのを、小学3年生だった前田さんは、わくわくしながら手伝った。
小さい時から自然に家業を継ぐものと擦り込まれ、納品に連れられていっては「4代目」と可愛がられ、迷いはなかった。大学でデザインを学び、オフィス家具メーカーで2年ほど働いた後、父に弟子入り。父は師匠に、母は師匠の奥さんになり、厳しい内弟子暮らしで修行した。「親子だからこそ、よけい厳しい所もありますし、初めは相当ぎくしやくして、母ははらはらしていたと思います」

最初の難関は飽の扱いだ。
買ってきた飽を使いやすい道具に仕立て、きちんと刃がとげるようになるまでに一般的には3年から5年。「木によって刃の立て方を変えるんです。それが分かってくると面白い。僕は小さい時に父がやっているのを見ていて、音が耳に入っていますから、『もう少しうまくいくはずだ』と目標があるんです」
 前田さんは、伝統的な物作りを教えてもらうには、徒弟制度が適しているという。「技術は時間を積み重ねればうまくなりますが、物作りの最終目標や木にどう向き合うかなど、寝食を共にしてようやく身についていく精神性があると思います」
 弟子入りして約10年。言われたことをするのが精いっぱいだったのが、4、5年前から独り立ちし、自分の頭で考えられるようになった。伝統の技で現代の暮らしに合った物作りをし、古来の豊かな生活文化を伝えようとする試みは、次回の話としよう。



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「三城で時を刻んだ弟子達」

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「会ってみたいモノつくるひと」木工芸 前田大作さん(下)
信濃毎日新聞_2009年12月25日
聞き手・北沢房子

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 江戸指物という木工の伝統技法を受け継ぐ前田大作さんは、最近鰹節削りを作っている。
 「小さい時、鰹節を削って母の所へ持っていくのが僕の役割でした。ある世代以上の方は、皆さん楽しそうな顔で同様におっしゃる。でも、僕より少し下の世代から、『何これ』となるんです」
 こういう道具が世の中にあり、これで鰹節を削るとおいしい。そんな暮らし方もいいのではと言いたくなった。
 「現代の生活で、家に置きたくなるような削り器を作らないと、鰹節を削るという行為を消してしまうとの危機感もあります」。昔ながらの物を今の暮らしに合わせて作り、そこに付随している文化や豊かな暮らしを伝えていくのが、職人の役目と感じる。
 今、着物箪笥を作るのも楽しい。「着物を着る方が増えていますが、しまう場所がないんですね。マンション住まいに昔ながらの桐箪笥は合わないです」
 木目が美しい栗材を使ったシンプルモダンな着物箪笥に、着物好きが目を輝かせる。
「今の時代にこういう物が欲しい、という人のための物が作れるかどうかが、工芸の本質だと思います」
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 指物は組み合わせの文化だ。引き出しの内側を桐で作って湿気を逃がしやすくし、外側は樽や桑などの固い木で抑えるといった適材適所の発想がある。最近積極的に使うようになったのが信州カラマツだ。割れたりそったりと評判は芳しくないものの、問題を克服する研究も進んだ。
赤みを帯びたつややかな肌のカラマツは「本当にきれいな木だから使いたいと思っています」。使い道が広がれば間伐につながり、信州の木を生かし、森を守ることにもなる
 前田さんは、箪笥の金物も自ら作る。手ごろな値段でいい金物を作ってくれる職人がいなくなってきたためだ。机や椅子の足に鉄を使ったり、アルミや真鍮で細工もする。
「金属を組み合わせるのは指物の世界で当たり前のこと。木だけでなく、最も適した素材を選ぶことで、物作りが合理的にできるようになってきます」
 2年前に株式会社「アトリエm4」を立ち上げた。m4とは前田家の4代目。「会社組織をつくって、父のお弟子さんだった人たちとのネットワークをつくっていくことで、工芸が未来に残っていく道があると思います」。伝統工芸にとって厳しい時代に、1人でできなくても、何人かが集まればできることもある。
 「僕の代でつぶすというのだけは恥ずかしい。m5になってもらわないと困るんです」



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「昼休み」 2009年冬


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2009.01.31

展覧会_「時代をつなぐなかまたち」 2009年2月19日から・銀座和光並木ホール

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「 9尺四方の和・なごみ 」

2009年和光展出品作品イメージ


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  僕達が伝えたい日本の心、和とはなんだろう


地域・家族・仲間達、きらびやかさとつつましさ・さりげなさ・こまやかさ、軽妙・渋好み、精々しさ、かろやか・強靱、樹木・神々、祖先への敬意・見識、木の扱いと空間転用、質素・錆び・ふるび・風合い、Remigration/土への回帰、存在と永遠、繊細と壮大、愛と慈悲、平等



近代が失ったものごと・伝統への回帰をこめて工芸仲間井尾氏と若者たちへ、、

小生は息子と我が家からのメッセージ「日本のこれからのくらし」を提案します


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 遥かな古(いにしえ)よりその技と意匠を凝らして、工芸家は美しい造形を世に問い、画家は描き、彫刻家は石を刻んできた。美の遺伝子は時を超えて連綿と連なる。井尾建二氏(金工)、前田純一氏(木工)、山脇智夫氏(洋画)、山崎隆氏(彫刻)、大室桃生さん(ガラス工芸)、前田大作氏(木工)、前岡奈央子さん(金工)、木村太郎氏(金工)。

 世代もジャンルも異にする作家たちのグループ展が和光並木ホールで開催される。「世代ごとに感性のキャッチボールができれば、楽しいと思いまして」と今回の展覧会の中心となった井尾氏は語る。

 『デザインとは人間が生活することを考えること』。地金を裁断し、鍛金によって造形、彫金をほどこし繊細な透かし彫りで装飾する伝統的な美術工芸品から、和洋いかなる空間にあっても違和感を覚えない現代的なフォルムの作品まで。井尾氏の融通無碍(ゆうずうむげ)な発想の根幹にあるのが工芸高等学校時代の恩師のこの教えだ。

 今回、展観される金工と木工、あるいはガラス工芸とのコラボレーションは先人たちのデザインを現代につなぐものでもある。厘の飾り金具、パート・ド・ヴェールと銀のワイングラス、陶磁器の香炉に銀のほや火屋など。工芸家たちは古くから構えることなく人間の生活を考え、用と美を伝えてきた。

 流麗な弧を描くスタンド、その先の細くしなやかな指で支えられ静かに宙にある薫球(くんきゅう)。毯香炉(まりこうろ)ともいわれるそれを指先につなぐのは茶室で用いられる釜の鐶である。世代をつなぎ、文化をつなぎ、今ここにある作品。さらに未来にもつながっていく。

 指物(さしもの)の技を現代的な木工につないで、祈りをテーマにした厨子。静諸でありながら明るい色彩にあふれた静物画。御影石を素材とした存在感豊かな彫刻。やさしい質感とフォルムのガラスの器。空間デザインの視点から気持のよい暮らしを実現する木工家具。精敵な装飾がほどこされた金工の作品。六〇代から三〇代までさまざまな世代の、さまざまなジャンルの作品が一堂に会する。そして、そこに美を見出す人々が集う。

その相関関係こそが時代をつなぎ、美しいものの世界を形作ってきた。同時にこれからも変わることなくあり続けるに違いない。過去から未来へと連なるものづくりの美学を心ゆくまで堪能していただきたい。

文:殿島三紀







2008.11.11

祖父前田南斎のこと

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数年前、友人O氏から祖父作の桑彫抜(指物ではなく、くりぬいて作る技法)巻煙草入れを頂戴した。〜煙草はやはり文化だっ!と騒いで笑われている〜
南斎は仕事に大変厳しい、怖い人だと見聞きしているが、ほんとうは、技法や常識にとらわれない、おおらかな人だったのではないだろうか?
仕事が遅いのは家系かもしれない。いいものはそんなに早く作れないよね、、と祖父と話す時間は跡継ぎの特権といえるかもしれない。

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「続 冬青庵楽事」 冬青 小林 勇

竹の竹斎、桐の留斉、桑の南斎。この人たちの作品を持っていた。竹斎の花籠は失ったが、あとの二人のものは今も大切にしている。三人とも近世の名工として伝っているが、作品が少く、それぞれ家庭に入ってしまったので容易に見る機会がないようだ。
私はかねがね職人の話をきくのが好きで、二三の人がいろいろの分野の職人の話をききがきした本を読んだ。しかし何となく表面をなでただけ、その職人の個性が出ていない。どの人の言葉使いもいわゆる「職人言葉」になっているのが多く気に入らなかった。
私は三人の名工のうち会ったのは、桑の前田南斎だけであった。そのことを書こうと久しく思っていたが、むずかしくて手が出なかった。それでは今は書けるのかと自問して見ても自信はない。しかし私のこの連載も終りに近づいたので勇気をふるってとっかかろうと思うようになった。老来体力も衰え、行動も頭もにぶくなったので、てきぱきと物ごとが運ばない。老人らしく、病人らしくたいらの心持で過したいと考えるのに、そういかない。腹の立つことのみ多くて厄介である。夜一人で酒をのんでいると、だんだん頭が冴えて来たような気分になる。そうすると、この稿に書いてもよさそうな「材料」が次から次と浮んで来る。その時すぐに記録しておけばよいのだが億劫なのでそのままにしておくと、翌朝はきれいに忘れている。
夢幻の世界などというのは、こういう心持であろう。職人のことを考えていると、この頃の世相がむやみに忌々しい。
職人がよく変人だといわれる。変人などではないのだ。まっとうな人間なのだ。いくら注文があってもなかなか仕事をしない。金のあるうちは仕事をしないで酒ばかりのんでいるなどといわれる。しかし職人の身になったら酒でものまずにいられぬのであろう。 岸田劉生の愛用した印に隠世道宝というのがある。劉生は自分が職人だなどと思ったことはないだろうが、貧乏し、何事も意のようにならなかった時こういう心持が生じたであろう。
 時に、「芸術家」が「俺は職人だ」などという人がある。一生懸命仕事に打込んでいるという意味かも知れないが、名も現れず、貧乏をし、優れた作品だけを遺した名工が古来どのくらいあっただろう。名のある芸術家より、無銘の名品を遺した職人の方が多いであろう。しかし今後はこういう名もない芸術家は多くは出ないと思う。作者の名がついていて下らぬものがどろどろ充満するのではあるまいか。
芸術家たちの世界もまた修羅の巷だ。金力と名誉を欲することは、政治家が金力と権力を握りたがることと大差あるまい。

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「桑彫抜巻煙草入」

さて私の夢幻の境をさまよう想念は世相にまで及び、アフリカや印度などの民衆のひどい姿を写した写真などに飛ぶのだから始末が悪い。そうして夜が更けてしまうのだ。
 今年七月三十日は露伴先生の三十三回忌だった。私は北軽井沢の山小屋で独り先生の思い出に耽った。「老始愛陶詩」という陸游の句を発見し、露伴先生のことを思うと、苦い日にあんなに人の考えられないほど先生に会い尊い時間を邪魔したのに、一体俺は何を学んだのだろうと思う。そしてこの頃、露伴全集をのぞいて見ると、始めてああそうかと思うことが多い。ここにも私の怠惰と甘ったれがあった。またしても日暮れて道遠しの感を抱かずにはいられない。
先生は職人が好きだった。さりげなく職人の話をしたが、深い愛情を湛えていたように思い出す。
竹斎のことも留斎のことも先生の口からきいたことはなかったようだが、今度も竹斎の花籠を思い出した時、ふと先生の最晩年の作品の一つ「幻談」は、釣竿のことであるのを思い出した。幻談はもとより小説であるが、先生はあれは釣りの先輩からきいた、死人が竿をしっかり持っていたという話から作ったといった。先生から釣りのことはずい分きいたし、利根川へ連れていって貰ったこともある。それで今度全集を出して「幻談」を改めて読んでみた。すでに何回も読んだこの作品に全く新鮮な感銘をうけたのに驚いた。「老いてはじめて愛す陶詩」と口はばったいことは云えぬが幾分は味わえるように思われる。

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「桑材花菱象嵌香炉卓隅部分象嵌」


先生の釣道具は何回か見た。鯨のひげにつける鈴に金のと銀と二つあって私が先生のお供で利根へ行った時、舟縁へそれをつけた。魚がかかると鳴るのである。先生の金の鈴も私の方の銀の鈴も二日の間に一回も鳴らなかった。釣糸の段段細というのも先生は見せてくれた。
「幻談」で話されている大部分のことは、先生があれを書く前に折にふれてきいていたのだ。私が何故この稿を書く時に「幻談」を思い出したかというと、先生の持っていた釣竿のことを回想したからである。
「幻談」では、夕暮れの海で、死者の持っていた釣竿を手に入れることになっている。死者の持っていた竿をつかむと「竿は水の上に全身を凛とあらわして、恰も名刀の鞘を払ったように美しい姿を見せた。」
「幻談」では名刀の如き竿を海へ返してしまうのであるが、先生の持っていた名竿は作者がわかっており、これを作って貰った苦心談もきいた。先生はこの竿を愛していた。素人の私が見ても実に美しいと思った。
 先生は晩年竿を使っての釣りをしなかった。「誰かわかる人にあげようかと思っているが」と云ったがとうとう誰にも与えず、昭和二十年五月二十五日、伝通院の蝸牛庵に於いて焼亡してしまった。「幻談」を書く時露伴先生の中には、この名竿があったにちがいない。竹は布袋竹で、それを選び育てる話などもきいた。作者は、「竿忠」といった。

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「桑材花菱象嵌香炉卓」



竹と木と土で作ったものは美しい。もちろん他に金属や月、漆などあるが、職人とか名工の作ったものはこういう材料で作ったものが親しい。私はコンクリートで固めたもの、ビニールを使ったものなど好きになれない。同じ石類でも雲崗の石仏に素晴しいもののあるのは知っているし、日本でも野仏の中に素朴な美を見ることが出来る。しかしあれが若しセメントで出来ていたらどういうことになるだろうか。
近頃お寺などが鉄筋コンクリートで建てられるのを見ることがある。外観形式は似ているが、冷やかな感じである。
 正倉院の中を見ることは戦前はやかましい身分の制限があったし、現在もほぼ同様である。しかし私は昭和二十六年にここへ約一週間つづけて入ることが出来た。岩波写真文庫のスタッフが御物撮影のために入ることを許されたのである。
 正倉院にはやかましい規制がある。私はそれを詳しくは知らない。現在はどうなっているか知らないが、以前は秋、宮内省から役人がやって来て倉を開く儀式をやり、確か一カ月だけ、風入れをした。その期間だけ或る「資格」と「コネクション」のある人達が拝観を許されたようだ。正倉院の校倉は見るからに荘厳で美しい、これだけ美しい木造建築がのこっているのは、珍らしく、ありがたい気がする。明治以前には高さ、二米四十の床下に乞食が住んだりして焚火をしたこともあるという。その痕跡も見えるが、よく火事を起さずにすんだものと思う。
 中へ入って私の一番最初に思ったことは、その中に入れられているものの保存のよいことであった。立沢なガラス張りの鍵のかかった戸棚におさめられているから手に取って見ることは出来ないが、少しも古びた感じがない。私のおどろいたのは、その檜づくりの戸棚は、伊藤博文の命によって、明治十年に作られたというが、昨日作られたといっても怪しまないほどの真新らしさを保っていたことだ。校倉造りの効果であろう。 倉の開けられるのは、湿度の少い日であって、晴れた日でも湿度計が上った日には開かれない。そのくらい厳重にしても当然であろう。 私は北倉、中倉、南倉の一、二階を丁寧に三四回ずつ見て廻った。私の余り興味をひくものは少かったが、ここに納っているものが全部七、八世紀のものであるということに感慨を待った。日本製のものは少く、そして九千点もあるという収蔵品のうち芸術的に感興をひくものの数は多くなかった。私の行った年は一般のそして特定の人も拝見を許されず、少数の研究者だけが許可された年であった。
 私の目をひき興味を抱いたのは、矢張り木と竹製のものが多かった、中でも確か中倉にあったと思うが黒柿で作った単純な箱であった。長い方が一米にも足りず、深さは五十糎くらいか、蓋がついていた。何ということもない茶箱のようなものであったが、その素朴な美しさに打たれた。
 私は、一緒に歩いていた所長に、もし一点を選ぶとしたら、頂戴したいのはこれだというと所長が時の総理大臣吉田茂がお前と同じことを云ったと笑った。

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「桑材菊彫嵌硯箱」

私は最初、竹斎、南斎のことを話したいと考えたのだが、竹斎のことも南斎のことも調べることが出来なかった。しかも竹斎の作品はなくなってしまった。桐の留斎の作った文台があるので、それを写真にして、掲載するにとどめる。漆で書かれた文字は露伴先生の筆で裏側には「白香山詩説」 「露伴道人」と墨書されている。文台の美しさに露伴の漆書きが華を添えている、珍品と申すべきであろう。
桑の南斎に会ったのは、既に二十年近く前ではないかと思う。 銀行家の曾志崎誠二翁が南斎を知っていて、その作品を見に行こうと誘われた。安倍能成、小宮豊隆両先生も一緒だった。 南斎はすでに年とっていて、しかも病後であった。いろいろの作品が家の中に置いてあり、それらは希望者の注文で作ったものであるときいた。作品といっても家具が主のように見うけられた。いずれも桑の良い材料がつかわれていて美しかった。箪笥や鏡台用箪笥、その他手文庫など皆美しかった。
 材料の桑は御蔵島に生えていたもので皆年代を経たものといった。御蔵島には昔からの大きな桑の木があったが、次第に少くなり、今はほとんど絶滅に近いと、南斎は淡々と話した。 ひと通り見終った時、南斎は私達を別の部屋に案内した。
 その部屋の窓よりに一脚の机が置いてあった。それは一見して桑の製品であることがわかった。 私たちは皆息をのむような気持になって眺めた。南斎は黙って自分の作品を見て坐っていた。
しばらくして、誰からともなく賞賛の嘆声が発せられた。
 南斎は、このような立派な桑樹は自分の生涯にもー度しか手に入れることは出来なかったと感慨をこめて話した。御蔵島にももうないだろう。自分が手に入れてからも三十年以上経ている。戦争で失っては困ると思って安全な所へ移しておいた。自分も年老いて来たから一生一代の思い出にこれを使って作品を遺して置こうと考えた。しかし何を作るかと散々考えたのち迷ったのち、机にしようと決心した。
 机を作るのが板の大きさも木目もー番ふさわしいと考えたので一安心したが細い部分を決めるまでに随分手間取った。しかしいつまでも躊躇しているわけにゆかないので、祈るような心持で仕事にかかったと南斎は感慨深そうに話した。
 南斎はこれが自分の最後の作品になる、材料もないし健康もたもたないと覚悟したので時間はいくらかかってもよい自分の意に叶ったものを作り上げようとしたという。私は、桑の木の特徴や苦心談をききたいと思ったが、その机の美しさにだけ打たれていて質問出来なかった。何百年か、御蔵島に生きていた桑の巨木は一枚の板になり、一つの机になった。その作者名人は精魂を込めて仕事に打込み、自分の生涯の最高最後の仕事を成し終えて今その前に坐しているのだ。 この美しさは実物を見なければわからぬと思う。一座の者は黙していた。
 私は、自分でも思いがけなかったが突然これをゆずってくれと云ってしまった。人々はあっけに取られたようにしていた。南斎は私の顔をじっと見すえた。私も目を伏せず南斎の顔を見ていた。やがて南斎は、ふり切るような気配で「あなたにゆずりましょう」といった。そして大切にして下さいよといった。
 間もなく私達は南斎の家を出て車に乗ったが、何となく気まずい空気があった。安倍先生が「僕もほしかったが、云い出し兼ねているうちに君にやられてしまった」といった。
 南斎が机を渡してくれるまでに尚時間がかかった。私はその心持を察して一刻も早く渡してくれとはいわず、何回か南斎家を訪れた。そして桑の手文庫や松の香合を貰った。 机の板のまわりに打ってある装飾の釘の形は正倉院の御物の中のものから学んだと南斎はいった。

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「桑材春日形文机銘部分」

 南斎の桑の机や留斎の文台を見ていると、いったいこれらの作品はどのようにして作られたのだろうと思う。 二人とも名エと呼ぶことに誰も異存はあるまい。しかしその名工はどのようにして出来たか、今にしては誰も知ることは出来ない。その出生の所、年月日、歿年等は調べればすぐわかるだろう。しかし私はそれをしない。作品があるから他のことはいいと思うのだ。二人共家族があり、留斎の妻女は「ふみや」と露伴家で呼ばれ、晩年の露伴先生に仕えていた。如何にも職人の女房らしくはきはきてきぱきした女であった。
 この人が露伴先生の最後の色紙を貰った人だ。かかれたのは「水無月や与助はゐぬかどぜう売り」という句であった。 南斎の子息はたしか父と同じ道を選んだときいたが、桑樹のみを扱う人ではないような記憶がある。
 南斉の机を見ていると、この桑をどうして発見しただろうと思い、それを板にひく時どんな神経を使っただろうと思う。この美しい木目を生かすのにどんな修練を積んだのだろう。桑の性質をのみ込むのにどの位の年月がかかったのだろう。 鉋で、この美しい面をつくるまでに一体どの位の修業をしたのだろう。隅から隅まで作者の生涯の修業が生きているのだろうと思う。
私は修業というものがどんなものかを改めて考えずにはいられないのである。

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「桑材文台」隅部分



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2008.11.11

取材_市民タイムス白澤幸恵さんとの会話2006年12月25日

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市民タイムスは松本市を中心にした地方新聞で発行部数は7万部ほど。インターネットはじめ AM・FMなど、TVがなくても大きな事件などのニュースなど、生きていくのに情報が充分な現代はむしろマスメディアに載らない地元に密着したコミュニティーや文化、創作活動などの記事が楽しく一市民として貴重な存在です。

信州は木工作家の数は日本一ではないかといわれていますが、ほかにも様々な分野の方が数多く創作活動をしています。地域的にも木曽から安曇野まで広範囲にわたり、そういった作家の方々の生き方と作品をシリーズで取り上げて下さっています。
江戸指物、伝統工芸ってなんですか?という若い方らしい素直な疑問に、・・・目的を見据えずに技法とかたちを継承することだけにとらわれていてこの仕事は過去の存在になりかけている・・と思う小生、質問にお答えしながら、伝統とはなにかを自身で振り返るいい機会となりました。クリスマスに発行していただきうれしいです。

THANX!!!


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「創・の現場を訪ねて」
伝統的な感性 形に

大量生産、大量消費が美化された高度経済成長期、日本のものづくりは変わった。職人技を伝承する人は減り、家を建てる材木は建材になり、学校で使う机も木製からスチール製の「命のない工業製品」に切り替わっていった。
オフィス家具メーカーに身を置きながら「消費社会は人間を良くしないのではないか」と思わずにはいられなかった。
毎日勤めから帰ると、細々ながら確かな技で江戸指物(さしもの)を作る父親の姿があった。「自分が継がなければこの仕事はなくなってしまうとも思った」。二十五歳で会社を辞め師事した。
指物は、ほぞで板や棒を組み合わせる伝統的な木製品だ。特に江戸指物はきゃしゃで粋で「極限の薄さを追求しながらも削るごとに大きく強くみせるもの」だという。父を見習って技を身に付けた。
三十歳の若さで日本工芸会木竹部正会員となった。「伝統的な感性を結果的に形に表す」ことに専心し、江戸指物師の三代目として精巧な技を土台に、鉄や銀、鋼、革なども取り入れたモダンでシンプルな独自の工芸品を生み出している。
自宅兼工房は、美ヶ原高原中腹の山あいにある。市街地から一時間近く車を走らせカラマツ林を抜けた所に広がる集落「三城」が気に入り、自ら設計して弟子たちと建てた。「自然と遊離しない、自然と一体感のある生活の中で使うものを作らなければいけない」。作品作りは人生をデザインすることと同じと考え、発想の場から手掛けたのだ。昭和五十九(一九八四)年に工房を移し、現在は四人の研修生と創作している。
作品が人の心に訴える心理的機能を大事にする。その機能があるものは使い続けられ、美を増し、やがて伝統になると考えるからだ。その上で「未来の生活様式を創造して」、神社の鳥居の曲線など日本人の美意識に訴える曲線を表出させ、使いやすく丈夫なデザインを練る。日本の日常生活にいすやテーブルが入り込んだのは、たかだか半世紀前。日本の民族性や暮らし方と融合させ「日本のものにしていく途中がいま」だと思っている。
若い作り手に、伝統的な木工技術という文化を伝承したいと願い昨年、特定非営利活動法人(NPO法人 「三城シューレ」を立ち上げた。
「暮らしの中で日本人の伝統、つまり習慣や美意識といった精神性も学んでほしい。それが形になるから」と寝食をともにする。自身の意匠はNPOに寄託し、研修生たちはそれを見習って稽古(けいこ)″に励む。
「火を見ていると勇気がわくね」。薪(まき)ストーブを前に、二十年以上も前に作った原点ともいえる「僕の椅子(いす)」に座り思索する。「木には命がある。立っている木にはない機能と美しさを出せるものを作らなければ」と、自然に囲まれた暮らしの場で、万物に宿る命を思いながらの創造が続く。

白澤幸恵

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「工房で白澤さんと」2006年12月



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よいモノを長く使い侘びさびた古き良きものを伝承することと僕達日本人に同居しているもうひとつの対照的な心情、真新しく精々しいものを尊び、古くなったものを大地に還してそのエネルギーがくり返し新しい命を生み出すという考えは、再生するエネルギーとして炭と薪、天然素材として障子や畳に象徴的で、樹の国がおそらく何万年も地球と共存してきた歴史となっています
 江戸時代になって蕎麦、鰻を食べさせる外食習慣が生まれ、日本酒の酒樽を作った端材(余りの木)の有効利用として考え出された割り箸は清潔好きな江戸文化が生み出した伝統で様々な割り箸が現代に伝わっていますが、世界的な人工増加や外食やファーストフードやお弁当を食べる機会が倍増したことで1990年の割り箸の消費量は1960年からの30年間で6倍になり、日本人一人が年間200膳もの割り箸分の木材を使い捨てていることになります。割り箸はお店のサービスですから価格に限度があり日本産は割に合わなくなって海外の端材ではない丸太を消費することになったのですが、現代は家具なども含めて樹の伐採量が自然増加量を上回り地球の砂漠化が進行している危惧は緑に覆われていたエジプトや、イースター島の歴史からも頷くことが出来ます


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「家族一年箸の誕生まで」

割り箸には「元禄、小判、長禄、利休」などの様々なかたちがあるのですが、天削(てんそげ)は大正時代に生まれた新しい形、研ぎ澄ました刃物で樹が痛がらないよう斜めに潔く切り落とした形が、まるで生きのいい魚を日本刀のような切れの良い包丁でさばいた江戸前独特の感覚なので工房のお気に入りです
国産檜の価格は最高級の建具材では立米(1mX1mX1mの容積分)100万円にもなりますので、建築家具材の端材であってもさすがに使い切りは勿体なく、この箸は汚れた肌を洗いとって日々新た、いつも新しい木肌がすがすがしい白木(しらき)ながら一年間は使えるように傷みやすい箸先を漆で保護して天削を五色で塗り分けました。色漆と金箔を使った五色を家族ひとりひとりの美しい個性と存在と尊重に例えたものですが白木と漆塗りの組み合わせは前例がないと自負しています
日本では五行、「地・水・火・風・空」をきれいな色幕で表しますので はじめ「五行箸」 と名付けましたが、家族お揃いが一体感を生み、社会を構成する最小単位「家庭」が食卓をこの箸で彩って楽しみ信頼し合うよう祈りをこめて「家族一年箸」と改名しました



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「泉・庭で」

和の食器は西洋と違って同じものを使わない個人用なので洗剤で洗う必要もなく、それで長い間日本のきれいな水が守られていたのですが最近の輸入材で作られた箸には材木に歩止まり(無駄のでかた)を優先し防かび剤や農薬が染みこませてあり、それらを口にして僕達は健康を失ったり化学物質が海に流れ、雨となって循環して大地を汚染しているのです
こうした環境破壊は自然の木で作る家や家具が少なくなって端材が出なくなったり、勿体ないとケチくさいを混同し、手のかかることはしないという今の社会の利潤や効率優先が原因と思いますが、奈良では特産吉野杉の端材から割り箸を作り伝統を繋いでいます。今では採算が合わなくなって風前の灯と言った状況でも端材を生かして粗品として配っているのですが、勿体ないという日本人の感覚は割に合わなくても正しいことをしたいという良心、経営は大変でも気持ちがいいことでしょうね
 さて、日本の木で作る箸、お碗という食器は、自然の産物を神様と人が共にいただく儀式のために創られたのがはじまりで神聖な道具は繰り返して使わずに土に還し、あたらしい清々しいものを尊ぶという日本人の精神性がつくられてきました。この伝統は神の依り代を新しくするために調度品などを新しく整える伊勢神宮の式年遷宮にながく伝わっていて、人が樹の成長に合わせた使いかたを工夫することで森・国土がリフレッシュしたり、伝統を守りながらものを作るための技術が伝承され、自然と共存することで美しい日本の風景が育まれてきたのですが、僕達が生きていくために必要なたべものなどなど、そもそも人は自然を作れないものなのですね
今年最後の仕事を仕上げるこのころ、慌ただしさと楽しみが同居しながら家族が協力しておせちを作ったり、餅つきをして鏡餅を飾ったり、正月用の箸を拵え、神_自然に感謝し祈るのが日本人の習慣です。墓参りもして新年を迎えるすがすがしさは一生にたった数十回、心して味わいたと思います


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2008.11.11

取材_市民タイムス白澤幸恵さんとの会話2006年12月25日

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市民タイムスは松本市を中心にした地方新聞で発行部数は7万部ほど。インターネットはじめ AM・FMなど、TVがなくても大きな事件などのニュースなど、生きていくのに情報が充分な現代はむしろマスメディアに載らない地元に密着したコミュニティーや文化、創作活動などの記事が楽しく一市民として貴重な存在です。

信州は木工作家の数は日本一ではないかといわれていますが、ほかにも様々な分野の方が数多く創作活動をしています。地域的にも木曽から安曇野まで広範囲にわたり、そういった作家の方々の生き方と作品をシリーズで取り上げて下さっています。
江戸指物、伝統工芸ってなんですか?という若い方らしい素直な疑問に、・・・目的を見据えずに技法とかたちを継承することだけにとらわれていてこの仕事は過去の存在になりかけている・・と思う小生、質問にお答えしながら、伝統とはなにかを自身で振り返るいい機会となりました。クリスマスに発行していただきうれしいです。

THANX!!!


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「創・の現場を訪ねて」
伝統的な感性 形に

大量生産、大量消費が美化された高度経済成長期、日本のものづくりは変わった。職人技を伝承する人は減り、家を建てる材木は建材になり、学校で使う机も木製からスチール製の「命のない工業製品」に切り替わっていった。
オフィス家具メーカーに身を置きながら「消費社会は人間を良くしないのではないか」と思わずにはいられなかった。
毎日勤めから帰ると、細々ながら確かな技で江戸指物(さしもの)を作る父親の姿があった。「自分が継がなければこの仕事はなくなってしまうとも思った」。二十五歳で会社を辞め師事した。
指物は、ほぞで板や棒を組み合わせる伝統的な木製品だ。特に江戸指物はきゃしゃで粋で「極限の薄さを追求しながらも削るごとに大きく強くみせるもの」だという。父を見習って技を身に付けた。
三十歳の若さで日本工芸会木竹部正会員となった。「伝統的な感性を結果的に形に表す」ことに専心し、江戸指物師の三代目として精巧な技を土台に、鉄や銀、鋼、革なども取り入れたモダンでシンプルな独自の工芸品を生み出している。
自宅兼工房は、美ヶ原高原中腹の山あいにある。市街地から一時間近く車を走らせカラマツ林を抜けた所に広がる集落「三城」が気に入り、自ら設計して弟子たちと建てた。「自然と遊離しない、自然と一体感のある生活の中で使うものを作らなければいけない」。作品作りは人生をデザインすることと同じと考え、発想の場から手掛けたのだ。昭和五十九(一九八四)年に工房を移し、現在は四人の研修生と創作している。
作品が人の心に訴える心理的機能を大事にする。その機能があるものは使い続けられ、美を増し、やがて伝統になると考えるからだ。その上で「未来の生活様式を創造して」、神社の鳥居の曲線など日本人の美意識に訴える曲線を表出させ、使いやすく丈夫なデザインを練る。日本の日常生活にいすやテーブルが入り込んだのは、たかだか半世紀前。日本の民族性や暮らし方と融合させ「日本のものにしていく途中がいま」だと思っている。
若い作り手に、伝統的な木工技術という文化を伝承したいと願い昨年、特定非営利活動法人(NPO法人 「三城シューレ」を立ち上げた。
「暮らしの中で日本人の伝統、つまり習慣や美意識といった精神性も学んでほしい。それが形になるから」と寝食をともにする。自身の意匠はNPOに寄託し、研修生たちはそれを見習って稽古(けいこ)″に励む。
「火を見ていると勇気がわくね」。薪(まき)ストーブを前に、二十年以上も前に作った原点ともいえる「僕の椅子(いす)」に座り思索する。「木には命がある。立っている木にはない機能と美しさを出せるものを作らなければ」と、自然に囲まれた暮らしの場で、万物に宿る命を思いながらの創造が続く。

白澤幸恵

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「工房で白澤さんと」2006年12月



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よいモノを長く使い侘びさびた古き良きものを伝承することと僕達日本人に同居しているもうひとつの対照的な心情、真新しく精々しいものを尊び、古くなったものを大地に還してそのエネルギーがくり返し新しい命を生み出すという考えは、再生するエネルギーとして炭と薪、天然素材として障子や畳に象徴的で、樹の国がおそらく何万年も地球と共存してきた歴史となっています
 江戸時代になって蕎麦、鰻を食べさせる外食習慣が生まれ、日本酒の酒樽を作った端材(余りの木)の有効利用として考え出された割り箸は清潔好きな江戸文化が生み出した伝統で様々な割り箸が現代に伝わっていますが、世界的な人工増加や外食やファーストフードやお弁当を食べる機会が倍増したことで1990年の割り箸の消費量は1960年からの30年間で6倍になり、日本人一人が年間200膳もの割り箸分の木材を使い捨てていることになります。割り箸はお店のサービスですから価格に限度があり日本産は割に合わなくなって海外の端材ではない丸太を消費することになったのですが、現代は家具なども含めて樹の伐採量が自然増加量を上回り地球の砂漠化が進行している危惧は緑に覆われていたエジプトや、イースター島の歴史からも頷くことが出来ます


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「家族一年箸の誕生まで」

割り箸には「元禄、小判、長禄、利休」などの様々なかたちがあるのですが、天削(てんそげ)は大正時代に生まれた新しい形、研ぎ澄ました刃物で樹が痛がらないよう斜めに潔く切り落とした形が、まるで生きのいい魚を日本刀のような切れの良い包丁でさばいた江戸前独特の感覚なので工房のお気に入りです
国産檜の価格は最高級の建具材では立米(1mX1mX1mの容積分)100万円にもなりますので、建築家具材の端材であってもさすがに使い切りは勿体なく、この箸は汚れた肌を洗いとって日々新た、いつも新しい木肌がすがすがしい白木(しらき)ながら一年間は使えるように傷みやすい箸先を漆で保護して天削を五色で塗り分けました。色漆と金箔を使った五色を家族ひとりひとりの美しい個性と存在と尊重に例えたものですが白木と漆塗りの組み合わせは前例がないと自負しています
日本では五行、「地・水・火・風・空」をきれいな色幕で表しますので はじめ「五行箸」 と名付けましたが、家族お揃いが一体感を生み、社会を構成する最小単位「家庭」が食卓をこの箸で彩って楽しみ信頼し合うよう祈りをこめて「家族一年箸」と改名しました



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「泉・庭で」

和の食器は西洋と違って同じものを使わない個人用なので洗剤で洗う必要もなく、それで長い間日本のきれいな水が守られていたのですが最近の輸入材で作られた箸には材木に歩止まり(無駄のでかた)を優先し防かび剤や農薬が染みこませてあり、それらを口にして僕達は健康を失ったり化学物質が海に流れ、雨となって循環して大地を汚染しているのです
こうした環境破壊は自然の木で作る家や家具が少なくなって端材が出なくなったり、勿体ないとケチくさいを混同し、手のかかることはしないという今の社会の利潤や効率優先が原因と思いますが、奈良では特産吉野杉の端材から割り箸を作り伝統を繋いでいます。今では採算が合わなくなって風前の灯と言った状況でも端材を生かして粗品として配っているのですが、勿体ないという日本人の感覚は割に合わなくても正しいことをしたいという良心、経営は大変でも気持ちがいいことでしょうね
 さて、日本の木で作る箸、お碗という食器は、自然の産物を神様と人が共にいただく儀式のために創られたのがはじまりで神聖な道具は繰り返して使わずに土に還し、あたらしい清々しいものを尊ぶという日本人の精神性がつくられてきました。この伝統は神の依り代を新しくするために調度品などを新しく整える伊勢神宮の式年遷宮にながく伝わっていて、人が樹の成長に合わせた使いかたを工夫することで森・国土がリフレッシュしたり、伝統を守りながらものを作るための技術が伝承され、自然と共存することで美しい日本の風景が育まれてきたのですが、僕達が生きていくために必要なたべものなどなど、そもそも人は自然を作れないものなのですね
今年最後の仕事を仕上げるこのころ、慌ただしさと楽しみが同居しながら家族が協力しておせちを作ったり、餅つきをして鏡餅を飾ったり、正月用の箸を拵え、神_自然に感謝し祈るのが日本人の習慣です。墓参りもして新年を迎えるすがすがしさは一生にたった数十回、心して味わいたと思います


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