home > blog > 前田純一 blog

前田純一 blog

2016.02.21

私の半生12

(0)  (0)

刃巾4cmほどの豆平鉋と呼ぶ鉋は指物師の基本で、市販の鉋の仕込み勾配38°に対して45°以上に刃を立てて台に仕込むことで、一枚刃で逆目を止めます。父は、これが作れなきゃ見込みがないという判断基準にしていたのかもしれません
12_160213.jpg


2016.02.21

私の半生11

(0)  (0)

弟子入りをすると父は先ず、砥石、寸六、寸八の鉋、玄翁を僕に与えました。電動工具のない時代だったので、昔ながらの座式の細工場はシーンとしていて、僕は父がしばらく使って調子の出たお下がりの道具に四苦八苦しながら、師の出す音と空気感から仕事を学びました。鉋はチビましたが、作りなさいと初めて指示された豆平鉋の製作に使用したこの玄翁は、柄を差し替えて、今も僕の最も大事な道具となっています11_160211.jpg


2016.02.21

私の半生⑩

(0)  (0)

経済はどんどん発展していました。工場のオートメーションで僕のいた会社にもベルトコンベヤーやパレットなどが備わり、皆の給料もウナギのぼりでした。「ラジオ、テレビ、なんでも、、」といったコマーシャルソングが一段落する頃には電気製品もどんどん売れて、僕達が便利で豊かになるのには、森よりも原子力発電が必要なのだといった暗黙の了解のような空気が生まれていたような気がします
10_160209.jpg


2016.02.21

私の半生⑨

(0)  (0)

日本は樹の種類が多く、性格、表情もそれぞれで指物は効率が悪い。儲かるわけがないと家業を見ながら育ちましたので、機械を使って鉄板で作るという仕事は大変魅力的だったのです。父母は嫁を気に入ってくれ、休みの日にはスカイラインGTを運転して、それほどは渋滞のなかった湘南海岸を四人で走るのがたのしみでした。LPレコード5枚分が初任給の時代です
09_160206.jpg




2016.02.21

私の半生⑧

(0)  (0)

進学のために勉強するという意識が今ほどはない時代で、僕は剣道とギターに明け暮れていましたので、おめおめと国立大学に受かるわけなどありませんが(笑)、デザイン、という言葉が耳新しく、ファッションではアイビーが産声を上げ、しましまネクタイを締め、珍しかったハンバーガーを六本木でかじり、MGなどに乗って学校へ通う生徒が出てきたりしてオシャレな時代が始まったのでした。反戦歌を歌いましたが、ブラフォーやPPMなどのフォークソングのハーモニーが新鮮だっただけで、ベトナム反戦運動をしたわけでもなく、震災も戦争体験もなく、僕は何と無くふわーっとした時代を過ごさせていただいたのです08_160203.jpg


«  前へ   1  |  2  |  3  |  4  |  5  |  6  |  7  |  8  |  9  |  10  |  11   


PAGE TOP